SSブログ

〈5〉オート三輪に乗って [再び寄り道〈1953~〉]

 最近、父が語ったが、「父ちゃんはね、百姓やるのが好かやったけ(好きじゃなかったから)、あげな仕事を始めたったい」ということだったらしい。伯父も生前「おまいの父ちゃんはえらかぞ(偉いぞ)」といつも言っていた。確かに、戦争から帰ってきても、農家の次男では自分のいるところはないし、農地解放で田畑もほとんどなくなったから分家では農業だけでは立ち行かない。母の家に婿として入ってから、自分でできる独立した仕事を模索したのだろう。

 そのうち父は精米所の脇の畑だった土地に家を建てて一家で母の生家を出た。この引っ越した先の家は父がどこかで見つけてきた売り家の骨組み(今風に言えばスケルトンだな)を移築したものだ。昔風のでかい柱や梁を使って頑丈な家を作った。私が小学校2年生のときだ。当時、100万円かかったと言っていたが、これは子供の感覚では無限大にも近い金額だった。前の家とその裏手にあった田んぼを売って足しにしたらしい。

 農家相手の精米所だけではやはり売上げはたかが知れている。当時は米の売買は国によって厳重に管理されていた(食糧管理制度・食管法)から、自由には扱えない。それでも闇米を仕入れて、福岡の料亭などに卸す同業者はいたが、父は別の商売を考えてやりだした。

 農家では秋に稲を刈り、脱穀して、乾燥させた上で、籾すりをする。籾すりをするためには籾すり機がいる。この籾すり機をエンジン付きの台車に乗せて農家を回る。この移動籾すり機は町の精米同業組合で数台保有管理していて、組合員が当番で農家を回る。これも父の仕事で私もずいぶん一緒に回った。こうやって籾すりをした玄米を農協に供出するわけだが、供出できないくず米が一定量出る。「くだけ」と言っていたが、籾すりの際、割れたり、もともと粒が小さかったりする米だ。

 この「くだけ」はお菓子(「おこし」っていう素朴なお菓子は知ってるかな?)や飼料の原料になる。この「くだけ」を農家を回って買い集める。集めた「くだけ」を吉井町にある商社の支店に売る。この商社は幅広く飼料を扱っている。この商社から父は当時流行だしたラーメン、焼きそばといった袋物の乾麺を仕入れて、「くだけ」を出してくれた農家に交換に渡す。もちろん現金でも交換する。そのうち秋月の製麺所からソーメンやソバの乾麺も仕入れるようになった。

 この取引にオート三輪(のちに普通トラックになったが)で、町中を回る。私はいつも助手席に乗っていて、荷物を上げ下ろしするときに手伝う。今でも懐かしく思い出すのは、大晦日にこの仕事を終えたら、駄菓子をいっぱい買って帰る。それを食べながら、その夜の紅白歌合戦を見るのだ。これが無上の楽しみだった。この仕事は私が大学生になって上京してから、たまに帰省するときまで続いた。

06022510.P2250066.JPG


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。