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〈7〉沖縄へ行く [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 荒れっぱなしの大学でもレポート提出とか体裁だけ整えれば卒業させてくれる。なかには単位が足りないとかで留年する人間も結構いるが。1975年、大学4年になり、卒業後の働き口を探さなければならない年になった。最近のリーマンショック後の就職氷河期のような過酷さではなかったが、当時も石油ショック後の就職難で、ひところのあきれるような売り手市場は鳴りを潜めていた。私はと言えば、就職せねばならないが、さりとて会社訪問など気が進まず、いくつかやってはみたがやはりなんのリアリティもわいてこない。マスコミの試験も受けては見るがこちらもまず到底無理。

 そんな折り、留年を繰り返していたサークルの2年先輩U氏が、本土復帰がなったばかりの沖縄県庁職員の試験を受けるという話を聞いて、私も急に思い立って受けることにした。平川町にある都道府県会館で願書を出して、どこだったか忘れたが採用試験を受けた。その先輩はだめだったが、私は1次試験に受かって、夏に沖縄の那覇で2次の筆記試験と面接を受けることになった。復帰記念の沖縄海洋博が行われていた。九州の親に借金をして、福岡から沖縄に向かった。海洋博を見物して、会場の沖に浮かぶ伊江島の民宿に泊まった。伊江島でサイクリングしたり海水浴をした。誰もいないきれいな海岸だった。ハブの被害はやはりあるようで、毎年死者も出ているという話も聞いた。

 翌日は那覇に戻って、観光バスに乗って南部戦跡巡りをした。ひめゆりの塔や摩文仁の丘などを回り、沖縄戦の悲惨さを初めて実感することになった。その日は那覇市内のユースホステルに泊まり、翌日が面接試験だった。何を聞かれたか、どう答えたか、ほとんど覚えていないが、沖縄の地域政党の名前を知ってるかと尋ねられ、ちょうどその日の朝読んだ地元の新聞の記事を思い出して答えることができた。この面接試験も合格で、いよいよあとは、欠員補充の採用通知が来るのを待つばかりとなった。東京の沖縄県事務所でさらに面会もしたが、採用通知はなかなかこない。

 その間、何もしないわけにもいかないので、大学の就職課に貼ってあった求人票を見て、ある出版社の採用試験を受けた。年が明けて76年2月になっていた。卒業予定の前月である。この採用試験に合格して、さっそくアルバイトで来るように言われた。それで(確か)2月8日から水道橋にあったその出版社の東京支社(本社は大阪)へアルバイトに行くようになった。社会保険・厚生年金もそのときからついて、けっこういいバイトになった。

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 卒業寸前のこの時期になっても沖縄県庁からの連絡はない。なんどか問い合わせの電話もしてみたが、まだわかりませんといった返事が返ってくるばかり。とうとう、アルバイトにいっていた出版社の入社式がある4月1日の前日に、「4月3日に登庁されたし」という趣旨の採用通知が沖縄県庁から来た。アルバイトをしていた時期に、出版社のF支社長にありのままを話して相談したら、「公務員になるより民間会社で思い切りやりたい仕事をやったほうがよくはないか」という趣旨のことを言われ、ていねいな手紙ももらった。そう言われると思ったし、言ってもらいたかったという気持ちもある。このF氏には先年亡くなられるまでずっとお世話になりっぱなしだった。

 結局、沖縄県庁には「そんな急な命令には従えません。無理です」という返事をした。もちろん、すでにアルバイト先の出版社への就職が決まっていたこともあるが。それにしても年度末ぎりぎりに一片の通知で「3日後に東京から沖縄に引っ越して出勤せよ」というのはどうなんだろう? しかもそれまで何度問い合わせても「採用予定についてはわからない」と言っていたのだ。わかっていても正式に決まるまでは教えないのだろう。公務員に採用されるというのはそういうことなのか(そういうことなんだろうな)。

 他府県から採用するということへの期待を以前に県庁の東京事務所の人から聞いていたこともあって、沖縄のことを裏切ったような気持ちになった。この沖縄県庁職員採用をめぐるあれこれを思い出しては、私は間違ったことをしたんだろうかと、それから今にいたる40年間以上も私を悩まし続けている。

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〈6〉大家さんに窮地を救ってもらう [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 どう見ても低調な大学生活だが、それに輪をかけるような病気をする。タバコは浪人時代から飲んでいたが、大学に入って、酒も飲むようになった。私は浪人時代の貧しい食生活もあってだいぶやせたが、もともと身長が180㎝を超え、体重も70㎏以上ある。体力には元々自信のあるほうで、病気やケガとはまったく無縁であったし、不死身くらいに思っていた。しかし、タバコ、酒、昼夜逆転の生活、を続けているうちに、健康を害していたようだ。

 73年の師走、サークルの仲間と麻雀をやっていたら、急に腹痛がしてきて、耐えきれないほどの痛みが襲ってきたので、面子を代わってもらい、帰宅しようとしたが、大学を出たあたりで、歩くこともできずうずくまってしまった。通りかかった親切な学生さんが近所の町医者まで連れて行ってくれた。そこで鎮痛剤を注射してもらったら楽になったので、下宿まで帰って寝た。しばらくしてその鎮痛剤が切れたのだろう、夜中にこれまで以上の猛烈な痛みが襲ってきた。七転八倒、とうとうがまんも限界で、階下の大家さんに助けを求めた。大家さんが救急車を呼んでくれて、近くの救急病院に担ぎ込まれた。宿直の外科医がお腹の様子を見て、腹膜炎の怖れがあるというので、その世は鎮痛剤で眠り、翌日緊急に開腹手術を行った。

 お腹を開けてみたら、十二指腸穿孔であった。胃潰瘍が進み、胃酸で十二指腸に穴が空いたのである。あのままほっといていたら、腹膜炎で死んでいたかも知れない。いったんお腹を閉じ、2週間後に再手術して、胃を切除することになった。いまは薬もいいものができて、胃潰瘍でも薬で抑えることができるが、当時は、胃の切除手術は普通に行われており、われわれ年代以上の人には胃を取った人が多い。ま、いずれにせよ私の場合は消化器に穴が空いたので薬では間に合わないが。

 病院に救急車で担ぎ込まれて、翌日手術を終えるまで、大家さんが付き添ってくれた。ベッドの脇に横になって徹夜で看病してくれたのである。朝になって、九州の実家と幾人かの友人に連絡してくれた。その翌日、九州から伯父と母がやってきた。西も東もわからず、住所だけを頼りに羽田空港からタクシーに乗ってどうにかたどり着いたのである。このときの右往左往ぶりを、その後もずっと伯父から聞かされた。友人連中も毎日入れ替わり立ち替わり見舞いに来てくれた。

 1回目の手術から2週間後に2回目の開腹手術を行い、胃を5分の4も取った。年末年始を病院で過ごし、45日入院して翌年の1月半ばに退院した。足腰が弱って、外に出たとたんよろけてしまった。胃を切る手術は術後が肝心である。食事は少しずつしか取れないから、何回にも分けて食べる。少しでも量を過ごすと、胃もたれで涙が出るほどきつい思いをする。ダンピング症候群である。消化能力が落ちているから、さらに血流は胃に集中して、頭がもうろうとしたり痛くなる。これにはいまだに悩まされている。とくに天ぷら、すき焼き、うなぎ、とんかつといった脂っぽい物はだめである。とくに安っぽい油を使った料理は胃が受け付けないからいっぺんでわかる。

 世の中は石油ショック(第1次)でトイレットペーパー騒ぎやら狂乱物価やらでで騒然としていた頃である。久しぶりに大学へ行って、欠席した英語のテストを1人で受けさせてもらったりした。(も少しつづく)

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          (湯島天神/茅の輪くぐり/6.19)





〈5〉失望、失敗の大学生活 [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 71年末に池袋に引っ越して、こんどは山手線で2駅で高田の馬場だから予備校まで今度も近い。昔から池袋西口から北口にかけては独特の垢抜けない雰囲気で、朝、西口歓楽街の宴の後みたいな一角を通ると何ともわびしい感じになる。今はもう再開発されてすっかり様変わりしているが、西口から狭い三業通りに入って奥のほうに行くと黒板塀が続く昔の色町がある。この三業通りは左右に居酒屋、肉屋、パン屋等々、様々な店が並んでいて、スーパーなどなくても何でも買い物ができた。なかにうまい江戸前寿司を握ってくれる立ち食いの寿司屋さんがあった。お金があるときなどは、鉄火巻きを握ってもらって帰って食べた。

 さて、年が明けて72年冬、受験シーズンが始まり、早稲田大学の法学部と政治経済学部を受けることにした。その前にあった同志社大学の入試(蒲田の専門学校であった)に合格していたので、これで田舎に帰って土方に逆戻りということは避けられた。結果は両方とも合格。どちらにしようかと思ったが、認知度の高い政経学部政治学科に決めた。(連合赤軍事件、あさま山荘事件が起きたのがちょうどこの時期である。)晴れて都の西北の住人になったわけで、それは嬉しかった。1年ぶりで田舎にも帰った。帰ったが、1年間ほとんど孤独で過ごしたので、言葉がなかなか出てこずしばらくは失語症に罹ったようだった。

 再び上京して入学式に出た。ここから私の大学生としての長い失敗生活が始まる。マンモス大学とはわかっていたが、新入生1万人である。全学で4万人! 教室は語学以外は大教室。先生達はおもしろくもなさそうに十年一日のように一方的な講義をする。今思えば、相当実績のある有名な先生方もいたが、ありがたみが全くない。授業に出ないようになるのは時間の問題だった。政治学科などと言う得体の知れない学科を選んだのも失敗だった。政治家や新聞記者をめざすようならいいかもしれないが、経済や法学、商学のような目に見える具体的なジャンルを選ぶべきだった。というのは後になって考えたこと。そもそもきちんとした目的意識がないのが最大の問題である。

 さらに当時は学生運動の末期。早大は民青、革マル、社青同解放派(アオカイ)、といったセクトが入り乱れて勢力争いを繰り広げ、長い角棒を振り回し、火炎瓶を投げ、校舎の4、5階から長椅子を投げつけるようなゲバルトを繰り返す殺伐とした状況だった。そしてとうとう鉄パイプを頭に振り下ろすようになり、殺人事件まで起こった(川口大三郎君事件、72年11月)。学費値上げ反対とかいろいろな理屈を言うが、要は勢力争いである。もうまったく失望しないほうがおかしいような当時の大学であった。このころの内ゲバ(殺し合いである)の様子は立花隆の当時の著作などに詳しい。

 授業もおもしろくないが、期末の試験などもほとんど実施されたことがない。大学は荒れ放題でそれどころではないのだ。レポート提出だけはなんとかこなして、卒業まで4年間を過ごした。こういう話を今の若い人が聞けばあきれてものが言えないだろう。その通りである。ただし、そんな中でもきちんと目的意識を持って勉強していた人ももちろんたくさんいた。そういう人たちがいまいろんな分野でリーダーとなって活躍している。だから自分の不勉強を時代や状況のせいにするのは卑怯なのである。

 クラスの友人に誘われて、「外政学会」という国際政治を勉強する硬いサークルに入った。当時は、このような時代だったから、マルクス、マックス・ヴェーバーなどを背伸びして読んで、読書会などをやっていた。マルクス「経済学・哲学草稿」「ユダヤ人問題によせて」などはかなり納得して読んだ。ヴェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」「職業としての政治」などもなんとか読んだ。あと、大塚久雄とか平田清明とかも先輩に教わりながら勉強した。今、こういう本を読む人はほとんどいないだろう。冷戦が終わり、グローバリズム、強欲資本主義と高度情報社会に覆われた世界は、当時とはまったく次元の違う世界である。ただ、こういう時代だからこそ、哲学としてのマルクス主義や実存主義は発想の幅を広げるには有益だと思うのだが。(まだつづく)

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              (至仏山から望む尾瀬ケ原と燧ヶ岳/1985年ごろ)


〈4〉71年末に池袋に引っ越す [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 下宿でも予備校でも誰とも話さない。週に1回、中野にある丸井本店の特設スタジオでやっていたラジオの音楽番組の公開収録を聴きに行くのがわずかな楽しみだった。司会は南こうせつとかぐや姫(初代のほう)で、当時人気のフォーク歌手が毎週来ていた。印象に残っているのは、加藤和彦がひとりで当時発売したばかりの「あの素晴しい愛をもういちど」を弾き語りで歌ったことだ。「このギターがむずかしいんですよ」と言っていた。確かに。あとは解散前の赤い鳥。あの女性2人のきれいなこと、可愛いこと、そして何より歌のうまいこと、声のきれいなこと。山本潤子はいまでももちろんほんとに歌がうまい。

 あと浪人時代で印象に残っているのは、夏休みに集中して大江健三郎を読んだことだ。あの文体は慣れるまで人を寄せ付けないが、一度はまってしまうともう浮かび上がれない。頭ががんがんするほど読んだ。「芽むしり仔撃ち」「性的人間」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「われらの時代」……あれほど夢中にさせる作家って今にいたるもいない。その後も「洪水は我が魂に及び」(これ最高!)「ピンチランナー調書」から「同時代ゲーム」くらいまではずっと追いかけていたが、その後はちょっと追いつけなくなってしまった。ノーベル賞以後はもっと違うところへ行かれたようで、あの熱狂は戻ってこない。

 71年の年末近くになって、同時期に美大をめざして浪人していた同窓の友人が家業(タクシー会社)を継ぐために受験を諦めて郷里に帰るという話を聞いた。池袋の西口から歩いて15分ほどの、川越街道を渡った先の民家が2階の3部屋を賃貸していたのだが、そこの4畳半のひと部屋だった。今思えばなんとも不用心というか不思議な感じがするが、階下にすむ大家さんと直接交渉して、私がその友人の代わりに住むことにした。月7000円である。礼金とか敷金とか払った覚えがない。年末も押し詰まったある日の夜、フトン袋ひとつ抱えて、新中野駅から丸ノ内線をぐるっとまわって池袋へ引っ越した。大きなフトン袋を携えるので、乗客の少ない夜しか引っ越せなかったのである。(トラックなどに使える金はない。)

 この下宿で浪人時代の終わりから大学時代、就職するまで6年ほど住むことになる。となりの4畳半とそのとなりの3畳の間に長野県青木村出身の姉妹が2人で住んでいた。もう一部屋奥にあったが、そこは大家さんの子供たち(兄妹)の部屋だった。大家さん(ご主人)は10年ほど前に亡くなったが、奥様と息子さんとは今でも年賀状のやりとりをしている。息子さんが小学生後年になったころ、家庭教師をやらされたこともある。この大家さん夫婦には大変な恩義を受け、かつ大迷惑をかけることになる。
(つづく)

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               (槍ヶ岳山荘から槍の穂を望む/2000年ごろ)


〈3〉ひとりぼっちで予備校でがんばる [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 予備校の大教室に通うことになった。この下宿から青梅街道を越えて中野駅まで行って、地下鉄東西線で高田の馬場まで通う。間に落合駅があるだけだから5分くらいだ。大教室はへたするとうるさいばかりで講師の声が聞こえなかったりするので、一番前の席にいつも座るようにした。そして誰とも話さない。友人もいないし、作ろうとも思っていないので、ただひたすら授業のテキストを予習復習しながら勉強するだけである。

 なにしろ高校時代の3年間は、入学時こそよかったが(つまり中学時代までは成績がよかった)、その後は下がるばかり。卒業する頃は後ろから数えた方が早いような成績になった。とくに数学・物理といった理科系科目はほとんどゼロ点。試験のときは、問題用紙が配られてしばらく考えるふりをするがさっぱりわからないので、すぐに教室を出て行った。

 というような事情なので、当然、大学は私立の文科系しか受験できない。私の場合は、英語・国語・日本史だ。予備校ではこの3科目を徹底して勉強した。予備校だから毎週試験があり、そのたびごとに順位が張り出される。最初は中の下くらいだったが、だんだん上位に食い込むようになり、年度の最後の方は3科目とも上位5番目くらいに毎週入るようにまでなった。なにしろ後がない。九州から出てきて、仕送りをしてもらっている身だから、落ちても2浪というわけにはいかない。落ちたら、上京前にやっかいになった工事現場の飯場にまた潜り込もうかとさえ考えていた。

 しかし、高校時代あれほど勉強しなかった自分が、もう後がなくなり、やるしかないとなったらやれたのである。あとにもさきにもあれほど勉強したのはあの1年だけだったといまだに思う。もっともテクニックと暗記(と慣れ)が大きくものを言う限られた範囲での受験勉強を「勉強」ととらえればの話で、創造性のある本来の勉強はとうとうできなかったと言っていい。そんな勉強でも試験ができ、順位がみるみる上がればそれなりの達成感があるものである。年度の最後のほうでは、この順位なら早稲田大学のいくつかの学部なら大丈夫というところまでこぎ着けた。(つづく)

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        (北アルプス蝶が岳から穂高連峰を望む/1990年頃)

〈2〉九州から上京して予備校通い [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 田舎から出て行くところは東京でも関西でもどこでもよかったんだが、友人の1人が、自分も上京するから一緒に俺の親戚の家にしばらくやっかいになろうと言ってくれたので、その友人と東京のオギクボというところへとりあえず行くことにした。ところがその友人が出発予定の数日前に「家の事情で上京できなくなった。お前のことは親戚に話しておくので、1人で行ってくれ」と言い出した。

 今思えば何とも無遠慮・ぶしつけ・あつかましい話なのだが、1人で上京し、その友人の親戚の家を探し出して、転がり込んだ。(当時はまだ新幹線は東京・大阪間で九州まで来ていないので、上京するにはもっぱら寝台特急だ、あさかぜとか富士とかだったな。学割で3000円くらいだったか。)その家には私より1歳上の友人のいとこがおり、そのいとこが翌日と翌々日、下宿探しを手伝ってくれた。早稲田大学の西門近くの学生相手の不動産屋で紹介してもらった地下鉄丸ノ内線新中野駅近くの下宿屋さんに決めた。今はもう少なくなっただろうが、大学のまわりなどは学生相手の木造アパートや賄い付きの下宿屋さんが多かったのだ。

 私が住むようになったのはこの新中野駅そばの杉山公園近くの個人宅が経営している、学生相手の下宿屋で、母屋と同じ敷地に建つ木造2階建て。母屋と共通の門の潜り戸を使って出入りする。縁側が巡らしてあり、庭から上がって部屋に入る。朝晩2食付き3畳一間で家賃15000円(だったと思う)。それで九州の実家からは毎月の仕送りを2万円送ってもらうようにした。住み込みの老夫婦が毎日朝晩食事を作ってくれた。今でも思い出すのは毎週末の夕食はカレーだったことや、極薄のハムカツなどが出たことだ。ここで9ヵ月ほど暮らした。この間、体重が10キロ減った。何しろ、使えるお金は限られているので、予備校での昼飯はせいぜいが立ち食いのそばである。食パン1斤を買ってきて、予備校から帰ってきて2日に分けて食べたりしたのを思い出す。

 前の住人が残していった大きな机があったので、これは重宝した。ただ、3畳一間だから、この机以外のスペースは畳2枚分しかない。寝るときは膝から下は机の下に入り込む。夏になるとゴキブリが出てくる。いつぞやはでかいゴキブリが私の顔をめがけて飛んできた。あんな距離を飛ぶゴキブリはその後も見たことがない。部屋の出入り口はふすまの開き戸である。たまに手紙などが来ると、賄いのおばさんがそのふすまと梁の間から投げ入れてくれる。鍵などはかけたことがないし、そもそも錠がない。

 むろん、トイレは共同。風呂はなし。但し、下宿を出た道路の反対側に銭湯があったので、そこへ1週間に1度入りに行った。38円だった。それにしても東京の銭湯の湯の熱いのには閉口した。後で知ったのだが、衛生上、条例で温度が決まってるんだね。

 おかしかったのは下宿の洗面所のそばに誰でも使っていい洗濯機が置いてあったのだが、それで洗濯しているときにうっかり洗濯槽の水に手を入れるとビリビリと感電するのだ。アースをきちんと取っていなかったせいかもしれない。その時の不快な感触と共にいまだに思い出す。(つづく)

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         (夏の尾瀬ケ原/ニッコウキスゲ/1980年ごろ)

〈1〉1971年〜上京以来44年が経った [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 こうやって孫の話をしている自分のことを考えると、妙な気分になる。高校を卒業し、大学を経て就職し、今はひとりで仕事をしている。その間、結婚をし、家庭を持ち、子供ができ、その子供が家庭を持ち子供を養うようになった。40年以上の時間が経っているが、そういう実感がない。先日も高校の(関東在住の人の)同窓会があって、40年ぶりくらいに会う友人が何人かいたが、それだけの時間がたったという具体的感覚がない。数日ぶりに再会し、先日の話の続きをしているという感覚なのだ。これが不思議だ。

 この時間的な感覚からくる「妙な気分」の正体は何なのだろうか? 子供がいて孫ができ、その子や孫がそれぞれに人生を歩んでいるし、歩みだしているというのは、かなり重い現実であるのだが、自分自身はというと、高校を卒業してまだごく短い時間しか生きていないような「妙な気分」を抱えたままなのである。私はただその日その日を無意識にやり過ごしてきただけなのか? だから時間の経過が充実したものとして実感されないのか? それとも生きていくとは、そもそもそういうものなのか? このブログを書き出してから、そういうちょっと表現しようもない思いがずっとしている。 

 私が上京し、東京に住み始めたのは1971年の4月だから、今から44年前になる。18歳だ。その年の冬、関西と東京の私立大学の入試にいずれも失敗し、東京の予備校に通って受験勉強をすることにしたのだ。全国的に燃え上がっていた全共闘運動も下火になりかけていた時期で、69年には東大入試が中止、71念から72年にかけて連合赤軍事件、浅間山荘事件といったことが起きている。

 実は私の通っていた福岡県の田園地帯にある高校も学生運動の影響を受けて、われわれの卒業年である71年には、卒業式ボイコットといった田舎の高校らしからぬ活動をする人間が少なからず出てきた。学校側も卒業式で渡された卒業証書を破るなどといった過激な行動に走った複数の生徒を退学処分にした。私はそういう跳ねっ返りな人間と比較的仲が良かったので、処分撤回の署名を集めたりもしたが、到底力になれないし、また、大学受験にもまったく歯が立たずに将来に展望が持てず、なんとも暗澹たる気分に陥り、郷里での暮らしにほとんど絶望していた。とにかく、ここから出たい、ここではないどこかに行きたい、と思うようになってきた。

 当時は高度成長時代の最後のほうであった。大阪万博が70年で、われわれも高校2年のとき、修学旅行で行った。(もっともやたら人が多かったことしか記憶がないが。)経済は拡大し、生活は豊かになってきていたのだろうが、今の若い人が想像するような希望に満ちた時代ではなかった。泥沼化するベトナム戦争、吹き荒れる学生運動、深刻な公害問題、大掛かりな労働争議、そして多く死者を出す炭鉱事故、等々。くら〜い時代だったのだ。

 高校時代まったくといっていいほど勉強せず、中間・期末の試験のときはまさしく一夜漬け。アンチョコ本を徹夜で覚えて乗り切るといったていたらくだから、現役での大学入試は到底歯が立たない。東京での入試が終わって、その足で予備校の入学要項を取りにいった。高田馬場にあった(今もあるか)早稲田予備校だ。予備校でも選抜試験のない誰でもはいれる大教室しか行くところはない。

 高校の卒業式も終わり、友人2人も誘って福岡市近郊の道路工事現場で働かせてもらうことになった。農村で手っ取り早く現金収入を得るには土方くらいしかないから、農閑期には飯場に入って日銭を稼ぐ人が多い。私の伯父も働いていたので、そこにもぐりこんだ。賄いつきの飯場にひと月もいただろうか。いくらもらったかも記憶にない。予備校の入学金くらいにはなったか。現場監督の人たちが泊まっていたプレハブの宿舎にあった電話を借りて、東京の予備校と連絡していたのを思い出す。(少しこのころの話をつづけてみる)

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