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〈3〉あのころの暮らしと風景 [再び寄り道〈1953~〉]

 私の生まれた家は、当時のあの地方の典型的な農家の造りであった。屋根は麦藁葺き、牛小屋と納屋も別棟(というのか)にあった。家に入ると、漆喰を土に混ぜてた固めた土間(ニワと呼んでいた)があり、履物を脱いで板張りに上がる。土間の続きに台所(炊事場)があって、かまどがふたつあり、これクドと呼んでいた。風呂は五右衛門風呂。台所のクドと背中合わせに焚き口がある。風呂を沸かすのは子供の仕事だった。燃料は山から取ってきた薪や廃材だ。家の裏には井戸が掘ってあり、ここからガチャガチャやる手押しポンプで水を汲む。

 あとは食事をする板敷きの間(その頃は、囲炉裏はすでになく、ちゃぶ台を使っていた。天井はなく、梁が黒光りしていた)と、3部屋(納戸とか仏壇のある座敷とか)の畳敷き。南面には広い縁側があった。縁側に面して外にでっかい梅の木が植わっていた。縁側に続く裏手の細い廊下の先に便所がある。平面図でも書かないとわからないだろうが、昔の田舎の農家はけっこう広いのである。

 母は毎朝、クドで火をおこして釜でご飯を炊く。子供心に母はいつ寝てるんだろうと、不思議に思っていたことを思い出す。煮物などは七輪を使うが、燃料はクドや風呂焚きから出る消し炭や豆炭である。豆炭とは石炭の粉などを丸く固めたものだ。七輪に火をおこすのは毎朝夕である。ずっとのちにプロパンガスが入ってきたときは、こんな便利なものがあるのかと目を丸くした。

 あのころ(昭和30年代前半)は何を食べていたんだろう。麦飯だった。肉や生魚はなかった。塩漬けのクジラはは良く覚えている。やはり穀類や芋、野菜類と漬け物に自家製のミソ、飼っている鶏の卵。お茶も裏の畑で作っていた。お茶っ葉を蒸して揉むときの強い薫りを思い出す。さすがに醤油ほかの調味料やイリコは買っていた。たまに生魚を売りに行商人が軽トラかなにかで回ってきていた。米との物々交換である。

 食べ物で思い出すのは、私はよくみそ汁かけご飯が好きで食べていたことだ。ネコまんまだな。昼飯はなにもないからおひつのご飯をよそって、朝の冷えたみそ汁をかけて食べる。これがうまい。(みそ汁もないときはご飯に醤油をかけてお茶をかけて食べる。)今、そんなことをしようものなら、家人に怒られてしまう。でも、卵掛けご飯や牛丼はいいけど、みそ汁かけご飯ななぜダメなんだろう? ね?

 家の前には広い庭(広いと言っても、子供の目にはそう映るだけだが。ここを外〈ソト〉と呼んでいた)があり、半分は畑にしており、後の半分で、秋の収穫時などにモミやナタネや、ゴマ、大豆などを干す。子供の遊び場でもある。缶蹴り、メンコ(パチンと呼んでいた)、コマ回し、釘さし、ビー玉(「ラムネん玉」と呼んでいた)、季節により天気により遊びにもいろんなバリエーションがある。小学生になると、夏休みにはここで近所の子らとラジオ体操をやっていた。父が毎年、朝顔を植え、屋根まで伸ばしていた。

 その庭(ソト)の前は幅5メートルほどの道路だ。これが昔からの幹線道路だった。筑後川上流の日田から福岡方面に伸びている。土を固めた大昔からの道だ。雨が降るとぬかるむ。通るのは主に人とリヤカー、牛馬、自転車などである。もっともその頃にはすでに立派な(といっても砂利道だが)県道ができて、筑後川よりのさらに南側を東から西へ走っていた(現在は国道386?号線)。そのまたずっとあと、今から20年ほど前には国道をまたぐように大分自動車道という高速道路ができた。この高速道路ができるので、大企業の工場やら大スーパーやら流通センターやらが進出してきた。(写真は松田、西丹沢あたりの山里。似たような風景が日本中にあるものである)

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