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9.蝶が岳と燕岳 [私の山歩き]

 槍・穂高はやはりだれでも登りたい山だが、行けばそう危険なこともないのだが、行くまでは緊張するものだ。危険はないと言ったが、これは体力が普通にあり、天候に恵まれればという話である。どの山でも同じである。だから槍の穂でも、大キレットでも体力と天候がよければだれでも登れる。

 われわれは槍・穂高に行く前に、上高地から蝶が岳に登っているし、中房温泉から燕岳にも登っている。蝶が岳に登ったのは、最初は上高地から徳沢を経て、槍沢をつめて槍ヶ岳に登るつもりだったのだが、何せ、これくらいの高い山は初心者ばかり。天候もあって、横尾から急遽、蝶が岳に進路変更したのだった。蝶が岳に登る途中の山腹から初めて眺めた槍ヶ岳には感動したものだ。

 蝶が岳は梓川の谷間を挟んで、槍・穂高連峰と向かいあっている。だから槍・穂高の眺めはすこぶるいい、山頂に連なる稜線は二重稜線と言う珍しい地形もある。稜線が二本走っているのだ。蝶が岳ヒュッテというしゃれた山小屋もあって、ここへはまた後年、子供2人含めた家族連れで訪れている。このときは常念岳から蝶が岳へと縦走したのだった。これは結構きつかった。ウスユキソウが咲いていた。

 槍や穂高に登るときに、また、それらの山から下りてから、上高地は10回ほど行っている。これは尾瀬と同じ回数くらいだ。特に夏休みは人出が多い。人、人、人であふれかえっている。おなじみの河童橋からの穂高岳の眺めはさすが絵になる。でもやはり山に登らなければ上高地止まりではつまらないだろう。上高地から梓川沿いを徳沢、横尾へと歩くと、森の中を移動する猿の群れが多く見られる。途中の茶屋などで売っている青リンゴもうまい。ただし、歩く人を追い越していく徳沢園や横尾山荘などのジープや軽トラはすこぶる興ざめである。

 燕岳もすばらしい山だ。ここへは関連会社の若い女性連も一緒に登った。合戦尾根というこれまた登りっぱなしの馬鹿尾根をひたすら登ればそのうち稜線に出る。稜線にでたら左手に燕山荘があり、右に30分ほど登れば燕岳山頂に着く。左手に進めば、表銀座コースで、槍ヶ岳を右手に見ながら歩く。天気がよければ最高の気分を味わえる。

 最初に登ったときはこの燕山荘に泊まって、山頂を往復し、翌日の朝は表銀座コースを大天井岳方面へ散歩して、蛙岩(げえろいわ)というところから引き返してきた。山荘に泊まっていたとき、ちょうどヘリコプターによる荷揚げをやっていた。ヘリコプターからつるしたでっかい網に詰めた食料その他を山荘近くに下ろすのだが、下ろした場所が悪かったのか、缶ビールが大量に谷間に転げ落ちた。缶が破裂するプシュ、プシュという音が谷間に響いていたのをいまでも思い出す。妙なことを覚えているものである。翌日は同じコースを下りて、安曇野のワサビ田や荻原守衛・碌山美術館を見学した。これはいい旅だったな。

 蝶が岳、燕岳のあとに表銀座コースを縦走することにした。これはいつであったかがはっきりわかる。ちょうどこのときロサンゼルスオリンピックが行われており、マラソンレースの模様を携帯ラジオで聴いていたのを覚えているからである。瀬古さん、増田さんが走って全く振るわなかった年である。1984(昭和59)年夏である。

8.はじめての南八ヶ岳縦走 [私の山歩き]

 八ヶ岳にも先に書いた北八ヶ岳を含めれば、4回登っている。東京からだと比較的容易にアルペン気分が味わえるのが南八ヶ岳である。まわりから独立した連峰だから、見晴らしも良くすこぶる気分のいい稜線歩きができる。話は飛ぶが、「八ヶ岳」という昔のフォークソングがある。高石友也作詞/杉田二郎作曲のなんとも甘ったるい昔のラブソングだが、聴けばホロッとするから、昔の若者は甘いのである。これは「神田川」などという曲を聴いてもわかる。なんだかんだ言ってもすぐ感傷的で甘くなる。

 さてさて、われわれが本格的に八ヶ岳縦走をしたのは、80年代前半だったろう、だいたいメンバーが20台終わりごろ、まだ女性はいなかった。おなじみの中央線最終の登山列車に乗って茅野まで。そこからバスで美濃戸口までいって、赤岳鉱泉からまず硫黄岳を目指す。硫黄岳頂上はでっかい噴火口である。われわれが最初に登ったときはガスが立ちこめて、見晴らしは良くなかった。硫黄岳石室という山小屋に泊まる。小屋の脇には主人が栽培しているコマクサが繁茂している。

 翌日は硫黄岳をあとにして、横岳から赤岳へと続く気持ちの良い稜線歩きである。とくに横岳から赤岳に向かうコースはスリル満点である。7、8年後に、家族4人でこれとは逆コースで縦走したことがあった。行者小屋から阿弥陀岳に登り、赤岳、横岳、硫黄岳から赤岳鉱泉に下りるコースだった。娘はまだ小学校低学年だったが、スカートに運動靴という出で立ちでこのコースを歩いた。いい思い出だが、本人はどこをどう歩いたかちゃんとは憶えていないらしい。今、調べたら、この家族で縦走した年は1988年であった。山小屋でNHK大河ドラマ「武田信玄」(中井貴一主演)を息子が熱心に見ていたのを思い出したのだ。息子が9歳、娘が6歳で、小学4年生と1年生であった。当時から息子は大河ドラマを熱心に見ていたが、こういった本格的な時代ものが最近は少なくなったね。

 横岳の荒々しい山頂を越して、いったん下って、頂上直下の急登をあえぎながら赤岳山頂に着く。南、中央、北アルプスから富士山まで眺めは360°最高。山頂は2つあって北峰と南峰で、南峯の方が高いんじゃなかったか。南峯から急なガレ場を下る。右へ曲がれば阿弥陀岳の登りに、まっすぐ進めば権現岳への登りになる。この2つの山は後年登ることになる。今回は左に折れて新教寺尾根を清里に向かって下ることにした。えんえん下って3時間20分ほどで美しの森という避暑地につく。当時、清里周辺は若者に大変人気で、女子大生などがテニスに興じていて、たいそうにぎわっていた。われわれが下りてきたときはちょうど土砂降りの雨が降ってきて、びしょぬれで泥だらけになっていた。そこから逃げるようにバスで清里まで下りてきた。なにも逃げる必要はないのだが、一刻も早く立ち去りたかったのだ。

 高原列車が走る小海線から眺める八ヶ岳もまた絶景である。野辺山にはでっかいパラボラアンテナが立つ天文台もあって独特の風景である。小海線はまた後年奥秩父に登ったときに通ることになる。小淵沢で中央線に乗り換えて新宿まで帰途についた。列車で一緒になった2人の若いロッククライマーの話(墜落事故など)がリアルで今も強く印象に残っている。

7.カタキ討ちの北岳と白峰三山 [私の山歩き]

 ここまで、あちこちの山に登っても、それが何年何月のことであったか記録などしていないので、だいたいこの年あたりだろうと書いてきたが、強く印象に残る出来事と一緒に思い出すことができれば、そうかあれは○年の夏であったかなどと、その年を決めることができる。

 学生時代に、北岳に登ってえらいめにあった(1972年)ことはすでに書いた。私のなかではどうしてもそのときのカタキをとりたいとずっと思っていた。それで、鳳凰三山に登った年の翌年あたりに1人で北岳に登った。天気にも恵まれて、大樺沢をつめて北岳山荘に泊まり、山頂を経て、学生時代と同じコースで下りてきた。(北岳山荘は1978年にできている。私が学生時代に泊まった北岳小屋はそのころはもう使われていない)。その頃から増えてきた韓国のツアーの人たちと山頂近くで一緒になったのでよく覚えている。これが学生時代の北岳からほぼ十数年後の1980年代の前半であったと思う。その年から少しあと、今度は山歩部の仲間と一緒に、白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)を縦走しようという計画を立てた。3000m超の三つの山を縦走する、北部南アルプスではとても人気があるコースである。夜行プラス2泊の日程だ。

 これが、1985年、昭和60年の夏休みだった。これははっきりしている。なぜかと言えば、出発の日の数日前、8月12日は日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した日だったのである。小生32歳の夏である。大樺沢を上り詰めて、八本歯のコルに立ったとき、まっすぐ後方(東方)が墜落現場の方角であった。この日もよく晴れていた。岩場をハシゴやクサリを使いながら北岳頂上に向かう途中には、ここにしか生えないというキタダケソウも咲いていた。

 北岳頂上から北岳山荘へと下りたのが午後まだ明るい時間だった。お盆休みということもあり、小屋は満員である。広い板の間に大勢さんで雑魚寝であった。夕方外へ出てみると、伊奈谷から登ってきた雲が小屋が立つ稜線を超えて滝雲となって反対側の野呂川の谷間へすごいスピードで落ちていた。あんなことがあるんだね。

 翌日は、中白根(3055m)を経て間ノ岳(3189)、西農鳥岳(3050)、農鳥岳(3025)とアップダウンを繰り返しながらの雲上の稜線歩きである。暑いが、澄んで乾いた空気なので、とても爽快である。登りはきついが。このコースは、数年後、私の長男が中学生になった頃、2人で全く同じコースでたどっている。このときは雷鳥がたくさんいた。登山者が通る道が砂状になっているので、人が通るにもかまわず、砂浴びをしているのである。しかもヒナを数羽も引き連れて。むろんだれも雷鳥をおどかしたりしないので、すっかり安心している。

 正面にでっかい塩見岳、後方に仙丈ヶ岳や甲斐駒ヶ岳が形良く見える。間ノ岳あたりが、山梨県、静岡県、長野県の県境がYの字に交わる交点になっている。東側が山梨県、西側が伊那谷そして中央アルプスと続く長野県、南側がさらに3000m超の山が続く静岡県である。深閑としたした空間にたたずんでいると、頭の中が遥かかなたの何かを見ているようなな何とも言えない気分になってくる。

 農鳥岳から大門沢に向かって下りる。沢近くにある大門沢小屋が山小屋の2泊目だ。妙なことを覚えているが、ここの経営者の名前が深沢さんという名前だった。高校時代から深沢七郎の小説はよく読んでいた。『笛吹川』には大変感動した。そうか、甲州に多い名前なんだな、と考えたことを思い出す。夜寝ていると、沢の音がゴーゴーと大きく響いていた。そしてカジカの鳴き声。あれほどのカジカの合唱は生まれて初めてであった。(「鰍沢」の舞台も近くだな。あれは怖い話だ。)

 翌日は下りに下って脚が棒になってしまったが、ふもとの奈良田温泉に入ってビールを飲んだら、すっかり生き返った。宿のマイクロバスで下部温泉まで送ってもらった。町に下りてきたら、すさまじいほどの暑さの盆地の夏である。線路脇にひまわりが揺れる身延線の電車に揺られながら甲府へと、そこからは中央線で新宿へと帰っていった。

6.鳳凰三山であわや遭難 [私の山歩き]

 これは初めて尾瀬に行った翌年、もしくは前年の夏だったかも知れない。南アルプスの鳳凰三山に夜行1泊で登った。アルプスと名のつくところは山歩部では初めてだった。学生時代に行った北岳と同じで、新宿23時55分新宿発の南小谷駅行き急行で甲府まで行って、早朝の広河原行きのバスを待って、夜叉神峠入り口まで行く。甲府駅は当時建て替えを準備していた。あのころから、中央線沿線はどの駅も同じような安っぽいカラフルな駅ビルになっていった。

 さて、夜叉神峠入り口でバスを降りて、登山口から夜叉神峠を目指す。1時間ほどで峠に着く。ここから白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)の眺めはすばらしい。峠をたって、杖立峠、苺平、南御室小屋を経て薬師岳小屋にたどり着くのに5時間超かかる。1日目はここで泊まり、翌日、薬師岳頂上、観音岳、地蔵岳と三山をめぐる。もう30年以上の前のことでもあり、ほとんど記憶がないが、地蔵岳の賽の河原とオベリスクはとても印象的だった。とくにオベリスクは周辺の山であればどこからでもそれとわかる特徴的な突起した巨岩である。チンポコ岩などというお下品な呼び名もある。

 今回の鳳凰三山登山でもうひとつ、忘れようにも忘れられないことがあった。それは下山コースを選択ミスし、あわや遭難しかけたことだ。普通は青木鉱泉に下りてバスで韮崎駅に帰るまともなコースがあるのだが、地図を見て、早川尾根をさらに奥へ向かい、白鳳峠から野呂川沿いの広河原に下りようとしたのだ。地図でもコースが点線で書いてあり、はっきりしていない箇所もあるかもしれないくらいは思っていたのだが、数日前に降った雨で、道がだいぶ荒れていたのだ。最初のうちは「これなら大丈夫だ」とずんずんと歩いて行ったのだが、中腹くらいまで下ったところで、すっかり道迷いになって、ただヤブコギするように下るだけになった。

 遥か眼下に広河原へ下る林道が見えてきたのだが、沢筋に入り込んで目の前が滝になったりして、行き止まり。また登り返して、尻で滑るように下る。ときどき大きな石が顔をかすめるように後ろから飛んでくる。こういうことを何度か繰り返して、やっとの思いで林道に下りた。あれは危なかった。明るいうちに下りられたからいいようなものの、暗くなったり雨や雪が降ってきたりしたらどうなったかと思うと今でもヒヤヒヤする。遠回りでも安全なコースをとるべきだとつくづく反省した次第である。


 

5.秋がくれば思い出す尾瀬 [私の山歩き]

 東京を中心に日帰りのハイキングコースは、丹沢、奥多摩、高尾山から続く中央線沿線、秩父などが中心になる。これらの山々はこれまでの30年余で行き尽くしたと思えるほど通っている。毎月の例会のほかにも、個人的に月1回は登っていた。だから毎年20回以上は出かけていたことになる。そして、夏から秋にかけては小屋どまりで夜行プラス1〜2泊の山行が毎年の恒例になった。経験者もごく限られていたので、冬の雪山やロッククライミングはやっていない。

 さて、丹沢縦走の後は夏にどこへ行こうかということになって、「尾瀬!」ということに当然のように決まった。はっきりとした年は覚えていないがこれも昭和の50年代半ばで、7月下旬の梅雨明けに予定した。実際は予定通りには梅雨が明けなかったので、1週間延期したが。

 7月最終週の金曜日の夜行列車で上越線沼田駅へ。まだ夜中の2、3時くらいに出るバスに乗って大清水まで。まだあたりは真っ暗である。ヘッドランプを付け三平峠へと向かう。途中、石清水で顔を洗い、水を補給。三平峠からは尾瀬沼を見下ろしながら沼畔へと下りる。長蔵小屋を経て大江湿原を渡る。一面のニッコウキスゲ、湿原を流れる小川にはイワナ、ヤマメの類いが群れをなして泳いでいる。水中のバイカモにも白い花が咲いている。右へ折れて、燧新道という登山道に入る。足下は水がたまってびしょびしょである。

 3時間ほどかかって燧ヶ岳に山頂に着く。山頂は2つあって、俎嵓(まないたぐら2346m、こちらに三角点がある)に登ってから、柴安嵓(しばやすぐら2356m)に登り返すようになる。山頂から南に向かって立ち、左手東側に登り始めた尾瀬沼が眼下に広がり、右手西側には尾瀬ケ原が見渡せる。下りはその尾瀬ケ原を見下ろしながら見晴し新道を下る。これがいやになるほど長いのである。尾瀬ケ原は太古湖だったところの湖底である。だから標高がぐんと登り始めたところより低いのである。まるで「地の底に下りるようだ」と誰かが言ったが、そう思える。(写真は尾瀬沼からの燧ヶ岳、昭和50年代末、以下同じ)

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 見晴らし十字路まで下りて、すぐ近くにあった原ノ小屋に泊まることにする。当時はまだ予約など必要なく、行き当たりばったりでも泊まることができた。ただやはり、水芭蕉の初夏、ニッコウキスゲなどが花盛りの夏、草紅葉の秋の週末などはどこも混んで、断られることもあるが、小屋は多いのでどこかには泊まれる(もとい、泊まれた。昔の話である)。

 翌日はルンルンの尾瀬ケ原散歩である。朝、朝もやがかかった湿原一面にニッコウキスゲの黄色い花が咲いている。尾瀬と言えば水芭蕉だが、これは初夏に咲き終わるので、でっかいおばけのような株があちこちに残っているだけである。高山植物は種類が多くて1度行ったくらいでは覚えきれないが、湿原に点在する池塘(ちとう、小さな池)の水面や水中に咲く蓮の仲間の未草(ヒツジグサ、未時=午後2時頃に咲くのでこういう)や尾瀬河骨(オゼコウホネ)はとくにきれいだ。(写真は尾瀬ヶ原からの燧ヶ岳、秋)

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 尾瀬はそれから秋に行ったり、少人数のグループや家族で行ったりで、何回通っただろうか。燧ヶ岳と至仏山には5度ずつ登っているから7、8回だろう。行くのは夏休み(お盆)か10月の連休だが、澄んだ空気、風に揺れるワタスゲ、一面の草紅葉の秋の風情はたまらない。いつぞやは秋の朝、湿原の真ん中の木のベンチがある休憩所で、ワインをみんなで飲んだことがあった。ほめられた行為ではないが、あれはうまかったなあ。(尾瀬ヶ原からの秋の至仏山)

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 息子、娘が小学校へ入るようになると、家族4人で泊まりがけのハイキングへよく行ったが、尾瀬にも行っている。見晴し十字路にある有名な○○小屋に泊まったときのこと。午後チェックインしたのだが、夕方5時が過ぎ、6時を超えても夕食の案内がない。子供2人も腹を空かせているので、どうしたのかと食堂に行くと、「夕食はもう終わりました。前もってお伝えした時間に来ないと、夕食はお出ししません」と言うではないか。「そんなことは聞いていない」と答えると、「そうですか。それじゃあ今回だけお出しします。次回からは気をつけてください」と言って投げやりに出してくれた。たとえこちらが聞き漏らしたとしてもあの対応はないだろう。あの不愉快な思いは何十年経っても忘れない。もう2度とあの小屋には泊まらない。
 
 その数年後だったか、その○○小屋と同経営者の尾瀬沼そばの◎◎小屋を建て替えたときの廃材を尾瀬沼畔に埋めていたというので、新聞沙汰になったことがある。環境保護とかさかんに運動してきたリーダーが経営する小屋だったので、ずいぶんとマスコミにもたたかれた。環境保護、開発反対なんぞそんなものである。ほんと、そんなものであると思う。山小屋には南北アルプスはじめあちこちに泊まったが、混雑して眠れなかったりしたことはあっても、あれほど不愉快な思いをしたことはない。

 

4.同好会発足して高尾山から丹沢へ [私の山歩き]

 北八ヶ岳に行った連中が中心になって、同好会をつくって活動しようという話が出てきた。これには北八ヶ岳に行った人間以外にも参加希望者がいくらかあった。会則があるわけでなし、だれがリーダーでもない、なんともルーズなサークルであるが、名前だけはつけようというので、創立メンバーの1人のH中が「山歩部(さんぽぶ)」という名前をつけた。これが今日まで40年近く続いているのである。もっとも、当時のメンバーはすでにだれも会社にはいない。現在は山歩部の行事を行っても、参加するのはほとんどが退職者や転職者のOB、OGである。

 発足時のメンバーは20代がほとんどで、おじさんも数人参加してきた。短大を出たばかりの若い女性も入ってきて、なかなか華やかなサークルになった。だいたい月に1回活動することに決めて、毎年の計画(どこに登るか)を私が立てていた。新年会でそれをもとに各月の当番幹事を決める。のちに各月の幹事が山行の計画自体を立てるようになった。月500円だが会費も徴収することにした。日帰りで5000円、1泊ごとに1万円という補助金をそこから支出した。参加不参加はもちろん全く自由。家族友人の連れも大歓迎。取引先や著者関連の仕事仲間も参加するようになってきた。新人が入会したり、部員が退職したり結婚したりすると、歓迎会や送別会、祝賀会などもやった。

 最初の山行は自然と高尾山となった。高尾山から城山、相模湖へと下りる入門初心者コースである。女性も3、4人は参加して楽しいピクニックだったが、時間の配分を間違えてしまい、相模湖駅に着いたときは真っ暗な夜になっていた。その次は表丹沢縦走。この辺から少し本格的な登山・ハイキングが計画されてくる。5月のゴールデンウイークで、ふもとの畑には麦が青々とした穂を揺らし、山は山桜やこぶしが花盛りであったのを思い出す。昭和の50年代半ばであるから今から35年くらい前のことである。

 表丹沢縦走というのはハイキングガイド本などに初歩の縦走コースとしてよく紹介されているので、ハイカーも多い。当時でも5月の連休などは小田急線の秦野駅からヤビツ峠に向かうバスは人がこぼれるほどだ。ヤビツ峠から右手の山腹の道を辿れば大山に1時間ほどで登れる。われわれはウグイスのさえずりが大きくこだまする車道を進んだ先を左に入って、縦走路を登り始める。(ウグイスの鳴き声があまりにおおきく明瞭に聞こえるので、どっかでスピーカーでも仕込んであるのだろうかと思ったくらいだった。)

 二ノ塔、三ノ塔と見晴らしのいい尾根道を進んで、新大日、木ノ又大日を経て、塔ノ岳まで3時間半くらい。滑りやすいむき出しの土の道ということもあって相当にきつい。途中にはクサリを使う箇所もある。ただ、塔ノ岳からの展望はすばらしい。相模湾が眼下に見える。江ノ島も伊豆大島もそれとはっきりわかる。丹沢主脈の向こうには南アルプスも見える。冬は真っ白だ。むろん富士山もでっかくそびえている。ただし、相模湾からの上昇気流のせいで、頂上付近がガスっていることが多く、私も塔の岳にはそれ以来5度は登っているが、はっきりそういう風な展望が望めたのは2度あったかどうかくらいである。

 塔ノ岳からは大倉尾根という有名なバカ尾根をまっしぐらに下る。すべりやすい裸道を急角度で下るので膝ががくがくしてくる。下りだからまだいいが、登りはさぞきつかろうと思うのだが、これがそうでもないのである。ゆっくりペースを保って登れば、長く険しい登りでも、いつの間にか頂上につくものである。下りのほうがきつい。「ゆっくりペースを保って」というのはどんな山でも同じで、これができればたいがい大丈夫だ。大倉尾根はふもと近くになるとカエデの並木になっていて、新緑、紅葉とも楽しめる。2、3年前に同じコースを辿ったとき、鹿が数頭登山道にたむろしていた。(たったいま大きな地震があった5/16/9:23)

 丹沢は特に蛭ヶ岳など主脈には鹿が頻繁に見られる。熊などと違って人に危害は加えないので、ついめずらしくなってうれしい気分になるものだが、これがくせもの。鹿の食害は深刻である。木々の新芽や下草などを食い尽くして、山を荒廃させる。また鹿に寄生する蛭がやたらに増えて、ハイカーを悩ませる。ふもとの雑木林なども、昔と違って、だれも手入れする人がいなくなってきたので、蛭がはびこっている。さらに深刻なのが酸性雨による樹木の立ち枯れだ。西丹沢のブナ林が無惨な姿になっている。首都圏の工業地帯や車の排ガスなどの影響ではないかと言われている。

3.社員旅行のついでに北八ヶ岳へ [私の山歩き]

 北岳に登った年の暮れに十二指腸潰瘍(穿孔)という深刻な病気になり、胃を5分の4も切除するという手術を受けたことはどこかで書いた。だから、しばらくは山に登るなどということはできなくなった。体重は10キロも減り、食も細くなった。ダンピング症状で食事のあとはきつくて動けない。

 そんなこんなで登山を再開するのは大学を卒業し、就職した(1976年)会社でサークル活動を始めてからであった。あの当時は社員旅行が毎年秋に行われており、そのための積立金が給料から天引きされていた。でんでん虫会という名の親睦団体が主催するという形だったのだ。でんでん虫という名前はそれによく似た社章に由来する。

 でんでん虫会の積立金は社員への少額の貸し付けにも流用されていて、私は給料日前はいつも利用していた。毎月15日を過ぎると会社から給料の前借りができる。もちろん基本給の半額以内という限度額はあって、借りるのはせいぜいが1、2万円である。それでも足りなくなると、でんでん虫会からさらに1万ほど前借りするのである。当時は給料は現金払いで、銀行振込はまだ一般化されておらず、キャッシュカードなどないし、CD(キャッシュディスペンサー)とかATMなどという罰当りな機械はまだない。サラ金とか消費者金融などというおぞましい商売もない(あったのだろうが、まだ影の存在だった)。だから、会社からの前借りやでんでん虫会からの融資でも足りなくなれば、上司や先輩から借りるのである(給料日に即返せる1万円以内の範囲であるが)。借りた側は年季を経れば貸す側に回る。それはそんなに恥ずかしいことではなかった。その後、サラ金とか消費者金融とかが引き起こす悲劇を見れば、そういう人間関係が果たしてきた役割は実に有意義だったと思う。そんな昭和な時代だった(これは昭和50年代前半ごろの話です)。

 私が入社して数年(3、4年だったか)後、社員旅行で、鹿沢温泉に行くことになった。1泊した翌朝、宿のマイクロバスを出してもらって、北八ヶ岳に行こうという話がどこからともなく出てきたのだ。会社には山のベテランの屈強山男が1人いて、頼りになる男だったから、彼をあてして5人くらいだったか、大河原峠まで険しい山道を送ってもらった。

 大河原峠から双子池、横岳、そして縞枯山ふもとの縞枯山荘で1泊した。翌日は縞枯山から茶臼山、そして麦草峠に降りて、白駒峠に登り、神秘的な白駒池を見下ろして、賽の河原の岩だらけの下り道をスリリングに駆け下りて、渋温泉(奥蓼科温泉の一角)まで。そこから渋の湯で呼んでもらったタクシーで茅野まで降りた。

 数年後に蓼科山へ登った以外は、北八ヶ岳はそれ以来今日まで行ったことがない。実に印象的な2日間だった。麦草峠で買ってきたアルコールランプもしばらくは遊びで使っていたが、どこへ行ったか。

2.嵐の翌朝の大雲海と富士山 [私の山歩き]

 ずっと以前、『評伝今西錦司』(本多靖春著)という本を読んでいたら、彼(今西)らが学生の頃(昭和の初期だろう)は、北岳などの南アルプス(北部)に登るときは、甲府駅から歩いたという記述があって「わぁお」と思わず叫んでしまった。今はもう舗装されてるだろうが、私が最初に行った1972年当時は甲府駅から広河原までバスで3時間ほども谷間のがけを削って付けた細い砂利道をえんえん登って行くのである。こういう道さえ今西先生が学生の頃にはなかったのであろう。

 ずう〜っとのち、高村薫の直木賞受賞作の『マークスの山』を読んだとき、夜叉神峠から広河原に至る山道や登山道が新左翼学生たちの内ゲバの舞台として登場していた。高村氏も学生時代にこの辺の山に通われたらしいことがわかって、それ以来高村作品の熱心な読者になった。『マークスの山』はとくにその当時の世相をリアルに描き出していて傑作である。(氏は「私は単なるミステリーを書いているわけではない」とインタビューに答えて物議をかもしたことはいまでも納得しながら思い出す。)

 さて、広河原は富士川の支流である野呂川上流に開けたその名の通りの深山渓谷の中に開けた谷間である。大きなロッジもあり、聞くところによると、上高地のような登山基地兼観光地にしたいという地元の期待もあるようだ。北岳をはじめとする北部南アルプスの起点となって多くの登山者やキャンプなどを楽しむ人々でにぎわっている。

 野呂川にかかる吊り橋を渡ってから北岳への登山が始まる。大樺沢という沢筋の道をひたすら上り詰める。雪渓も所々に残っている。この日は午後から天気が崩れるという予報であったが、U田さんは、「大丈夫! 少しがまんすれば山小屋につくよ」と言う。4時間以上もかかって八本歯のコルという稜線にたどり着いた頃は、回り中真っ白、強風が吹き付け、雨も激しい。しかもここからがガレ場の稜線歩き。天気がよければ高山植物を眺めながら極楽気分で歩ける所であるが、ハシゴ、クサリなどを使った嵐の中の岩だらけの登山道は泣きたくなるほどきつくて怖いのだ。

 私は最後尾だったが、だんだん遅れだして、回りに誰も見えなくなった。岩に付けられたマークをたよりによろけながら歩く。雨風で冷えたからだのあちこちがこむら返りを起こす。脚から臀部、おなかの筋肉までつってしまった。こんなことは生まれて初めて。ほんとに泣き出しそうになった。U田さんの友人で登山ベテランのAさん(名前忘れた)が引き返してくれてリードしてくれたおかげで、やっとこさほうほうの体で山小屋に転げ込んだ。

 今は150人泊まれる立派な山小屋(県営北岳山荘)が稜線に立っているが、当時は谷側の水場のそばに木造の北岳小屋があるだけだった。今はヘリコプターで食糧や水を大量に荷揚げできるので、水場のない稜線に小屋を建てても経営できるのだろうが、荷揚げを人力に頼るしかなかった昔は、水場は山小屋にとってなくてはならないものだったのである。一晩中風に煽られてみしみしと音を立てていた。何を作って食べたか記憶がないが、自炊で夕食。明日はどうなるのだろうとハラハラしながら眠りについた。

 ところが、である。翌朝は見渡す限りの大雲海、空は真っ青に晴れている。西の空には富士山が雲の上から顔をのぞかせている。こんな絶景も生まれて初めてである。もうみんな走るようにして山頂まで登った。昨日の苦労もこの絶景を見れば吹き飛んでしまったのだ。

 下りは肩の小屋を経由して、草スベリと呼ぶ急降下の道を転げるようにして降りて行った。「膝が笑う」ということが実感としてわかった。その夜のうちに無事東京は池袋の下宿まで帰り着いた。翌日から数日は最大級の筋肉痛である。下宿の階段が上れずに往生したのをいまでも思い出す。平坦な道を歩くのがこんなにもありがたいことだと痛感もした。(写真は後年登った甲斐駒ヶ岳山頂から撮った北岳。手前は摩利支天)

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1.嵐の北岳に挑戦する [私の山歩き]

 朝早く起きて、BSのNHKなどを見ていると、百名山とかグレートトラバースだとか山に関する番組を繰り返し繰り返しやっている。こういうのは好きなのでこちらも「あそこは登ったぞ」「あそこは行きたかったが行かなかったな」とか思い出しながら飽きずに見ている。

 さすがNHKで百名山、二百名山を駆け巡る主人公よりも、撮影者のほうがよほどきつかろう、危なかろうと思えるほど実によくきれいに正確に撮影している。おまけに遠景から、空からこれでもかというくらいに構図の決まったみごとな風景を見せてくれる。おまけに音楽もぜいたくについている。

 かと思えば、里山だ、小さな旅だ、新日本紀行だと、日本のよき風景、人物、祭りなどをていねいに切り取って見せてくれる。そういえば、火野正平の「日本縦断こころ旅」も大好きである。以前、人気になった関口知宏の鉄道番組もよく見た。こういうキャラクターを見つけて育てるのはNHKならではだな。人気のこれらの番組を好んで見るのはおそらく中高年であろうから、聴取料対策としても効果があるのだろうとつい考えてしまう。民放のやかましいお笑い芸人が跋扈するバラティ番組などおよそ目に触れるだけで拒絶反応を起こすのである。

 話がつい変な方向に行きかけたが、山の話をしようと思っていたのであった。私が山に登り始めたのは大学に入った年の秋の「体育の日」連休のときだった。1972(昭和47)年、19歳である。大学の学生会館にあるサークルの部室で「おい、今度の連休に北岳に行くからお前らも来い」と先輩のU田氏に誘われたわれわれ部員4、5名が賛同したのである。

 それまで山など登ったことはない。高校のとき、屋久島に生物部の採集旅行について行って、宮之浦岳の裾野をちょっと歩いたくらいであったし、そのときでさえ、息が切れて情けない思いをしたくらいである。北岳と言えば海抜高度3192メートルの日本第二の高山である。「大丈夫だ、かんたんだ」というU田先輩の言葉を信じたわけではないが、だらけた学生生活に自分で活を入れようと思ったこともあり、「行ってみるか」と思ったわけである。

 登山道具など何も持っていないから、言われるまま安いキスリングとキャラバンシューズを買ってきた。今はもちろんこんな貧しいリュックやシューズはどこ探してもない。でも昔はこんなもんだったんだよ。(今、ネットで見たら、間違ってた。キスリングは高級品となって今も売っている。キャラバンも登山用品では大手の立派な会社である。ただ当時、キャラバンシューズと言えばゴム底の簡易登山靴だったのだ)

 あの頃は日本アルプス方面の登山列車は23時55分新宿駅発の南小谷行きの急行列車だった。今はもうない。夏休みの週末ともなると新宿駅はこのキスリングリュックを背負った学生や若いサラリーマンなどが長蛇の列を作って真夜中の登山列車に乗り込んでいたのだ。

 北岳は中央線の甲府駅で降りて、バスで広河原という登山基地となっている谷間まで3時間ほども走る。夜明け前の2時頃甲府駅に着いて、バスが出る夜明け近くまでまた待たされる。当時もタクシーはあったはずだが、そんなものに乗れる身分ではない。夜が明ける前の登山バスに乗って、信玄公の前を通りすぎ、釜無川を渡って行く。(つづく)
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