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〈1〉1971年〜上京以来44年が経った [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 こうやって孫の話をしている自分のことを考えると、妙な気分になる。高校を卒業し、大学を経て就職し、今はひとりで仕事をしている。その間、結婚をし、家庭を持ち、子供ができ、その子供が家庭を持ち子供を養うようになった。40年以上の時間が経っているが、そういう実感がない。先日も高校の(関東在住の人の)同窓会があって、40年ぶりくらいに会う友人が何人かいたが、それだけの時間がたったという具体的感覚がない。数日ぶりに再会し、先日の話の続きをしているという感覚なのだ。これが不思議だ。

 この時間的な感覚からくる「妙な気分」の正体は何なのだろうか? 子供がいて孫ができ、その子や孫がそれぞれに人生を歩んでいるし、歩みだしているというのは、かなり重い現実であるのだが、自分自身はというと、高校を卒業してまだごく短い時間しか生きていないような「妙な気分」を抱えたままなのである。私はただその日その日を無意識にやり過ごしてきただけなのか? だから時間の経過が充実したものとして実感されないのか? それとも生きていくとは、そもそもそういうものなのか? このブログを書き出してから、そういうちょっと表現しようもない思いがずっとしている。 

 私が上京し、東京に住み始めたのは1971年の4月だから、今から44年前になる。18歳だ。その年の冬、関西と東京の私立大学の入試にいずれも失敗し、東京の予備校に通って受験勉強をすることにしたのだ。全国的に燃え上がっていた全共闘運動も下火になりかけていた時期で、69年には東大入試が中止、71念から72年にかけて連合赤軍事件、浅間山荘事件といったことが起きている。

 実は私の通っていた福岡県の田園地帯にある高校も学生運動の影響を受けて、われわれの卒業年である71年には、卒業式ボイコットといった田舎の高校らしからぬ活動をする人間が少なからず出てきた。学校側も卒業式で渡された卒業証書を破るなどといった過激な行動に走った複数の生徒を退学処分にした。私はそういう跳ねっ返りな人間と比較的仲が良かったので、処分撤回の署名を集めたりもしたが、到底力になれないし、また、大学受験にもまったく歯が立たずに将来に展望が持てず、なんとも暗澹たる気分に陥り、郷里での暮らしにほとんど絶望していた。とにかく、ここから出たい、ここではないどこかに行きたい、と思うようになってきた。

 当時は高度成長時代の最後のほうであった。大阪万博が70年で、われわれも高校2年のとき、修学旅行で行った。(もっともやたら人が多かったことしか記憶がないが。)経済は拡大し、生活は豊かになってきていたのだろうが、今の若い人が想像するような希望に満ちた時代ではなかった。泥沼化するベトナム戦争、吹き荒れる学生運動、深刻な公害問題、大掛かりな労働争議、そして多く死者を出す炭鉱事故、等々。くら〜い時代だったのだ。

 高校時代まったくといっていいほど勉強せず、中間・期末の試験のときはまさしく一夜漬け。アンチョコ本を徹夜で覚えて乗り切るといったていたらくだから、現役での大学入試は到底歯が立たない。東京での入試が終わって、その足で予備校の入学要項を取りにいった。高田馬場にあった(今もあるか)早稲田予備校だ。予備校でも選抜試験のない誰でもはいれる大教室しか行くところはない。

 高校の卒業式も終わり、友人2人も誘って福岡市近郊の道路工事現場で働かせてもらうことになった。農村で手っ取り早く現金収入を得るには土方くらいしかないから、農閑期には飯場に入って日銭を稼ぐ人が多い。私の伯父も働いていたので、そこにもぐりこんだ。賄いつきの飯場にひと月もいただろうか。いくらもらったかも記憶にない。予備校の入学金くらいにはなったか。現場監督の人たちが泊まっていたプレハブの宿舎にあった電話を借りて、東京の予備校と連絡していたのを思い出す。(少しこのころの話をつづけてみる)

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