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〈2〉九州から上京して予備校通い [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 田舎から出て行くところは東京でも関西でもどこでもよかったんだが、友人の1人が、自分も上京するから一緒に俺の親戚の家にしばらくやっかいになろうと言ってくれたので、その友人と東京のオギクボというところへとりあえず行くことにした。ところがその友人が出発予定の数日前に「家の事情で上京できなくなった。お前のことは親戚に話しておくので、1人で行ってくれ」と言い出した。

 今思えば何とも無遠慮・ぶしつけ・あつかましい話なのだが、1人で上京し、その友人の親戚の家を探し出して、転がり込んだ。(当時はまだ新幹線は東京・大阪間で九州まで来ていないので、上京するにはもっぱら寝台特急だ、あさかぜとか富士とかだったな。学割で3000円くらいだったか。)その家には私より1歳上の友人のいとこがおり、そのいとこが翌日と翌々日、下宿探しを手伝ってくれた。早稲田大学の西門近くの学生相手の不動産屋で紹介してもらった地下鉄丸ノ内線新中野駅近くの下宿屋さんに決めた。今はもう少なくなっただろうが、大学のまわりなどは学生相手の木造アパートや賄い付きの下宿屋さんが多かったのだ。

 私が住むようになったのはこの新中野駅そばの杉山公園近くの個人宅が経営している、学生相手の下宿屋で、母屋と同じ敷地に建つ木造2階建て。母屋と共通の門の潜り戸を使って出入りする。縁側が巡らしてあり、庭から上がって部屋に入る。朝晩2食付き3畳一間で家賃15000円(だったと思う)。それで九州の実家からは毎月の仕送りを2万円送ってもらうようにした。住み込みの老夫婦が毎日朝晩食事を作ってくれた。今でも思い出すのは毎週末の夕食はカレーだったことや、極薄のハムカツなどが出たことだ。ここで9ヵ月ほど暮らした。この間、体重が10キロ減った。何しろ、使えるお金は限られているので、予備校での昼飯はせいぜいが立ち食いのそばである。食パン1斤を買ってきて、予備校から帰ってきて2日に分けて食べたりしたのを思い出す。

 前の住人が残していった大きな机があったので、これは重宝した。ただ、3畳一間だから、この机以外のスペースは畳2枚分しかない。寝るときは膝から下は机の下に入り込む。夏になるとゴキブリが出てくる。いつぞやはでかいゴキブリが私の顔をめがけて飛んできた。あんな距離を飛ぶゴキブリはその後も見たことがない。部屋の出入り口はふすまの開き戸である。たまに手紙などが来ると、賄いのおばさんがそのふすまと梁の間から投げ入れてくれる。鍵などはかけたことがないし、そもそも錠がない。

 むろん、トイレは共同。風呂はなし。但し、下宿を出た道路の反対側に銭湯があったので、そこへ1週間に1度入りに行った。38円だった。それにしても東京の銭湯の湯の熱いのには閉口した。後で知ったのだが、衛生上、条例で温度が決まってるんだね。

 おかしかったのは下宿の洗面所のそばに誰でも使っていい洗濯機が置いてあったのだが、それで洗濯しているときにうっかり洗濯槽の水に手を入れるとビリビリと感電するのだ。アースをきちんと取っていなかったせいかもしれない。その時の不快な感触と共にいまだに思い出す。(つづく)

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         (夏の尾瀬ケ原/ニッコウキスゲ/1980年ごろ)
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