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〈4〉71年末に池袋に引っ越す [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 下宿でも予備校でも誰とも話さない。週に1回、中野にある丸井本店の特設スタジオでやっていたラジオの音楽番組の公開収録を聴きに行くのがわずかな楽しみだった。司会は南こうせつとかぐや姫(初代のほう)で、当時人気のフォーク歌手が毎週来ていた。印象に残っているのは、加藤和彦がひとりで当時発売したばかりの「あの素晴しい愛をもういちど」を弾き語りで歌ったことだ。「このギターがむずかしいんですよ」と言っていた。確かに。あとは解散前の赤い鳥。あの女性2人のきれいなこと、可愛いこと、そして何より歌のうまいこと、声のきれいなこと。山本潤子はいまでももちろんほんとに歌がうまい。

 あと浪人時代で印象に残っているのは、夏休みに集中して大江健三郎を読んだことだ。あの文体は慣れるまで人を寄せ付けないが、一度はまってしまうともう浮かび上がれない。頭ががんがんするほど読んだ。「芽むしり仔撃ち」「性的人間」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「われらの時代」……あれほど夢中にさせる作家って今にいたるもいない。その後も「洪水は我が魂に及び」(これ最高!)「ピンチランナー調書」から「同時代ゲーム」くらいまではずっと追いかけていたが、その後はちょっと追いつけなくなってしまった。ノーベル賞以後はもっと違うところへ行かれたようで、あの熱狂は戻ってこない。

 71年の年末近くになって、同時期に美大をめざして浪人していた同窓の友人が家業(タクシー会社)を継ぐために受験を諦めて郷里に帰るという話を聞いた。池袋の西口から歩いて15分ほどの、川越街道を渡った先の民家が2階の3部屋を賃貸していたのだが、そこの4畳半のひと部屋だった。今思えばなんとも不用心というか不思議な感じがするが、階下にすむ大家さんと直接交渉して、私がその友人の代わりに住むことにした。月7000円である。礼金とか敷金とか払った覚えがない。年末も押し詰まったある日の夜、フトン袋ひとつ抱えて、新中野駅から丸ノ内線をぐるっとまわって池袋へ引っ越した。大きなフトン袋を携えるので、乗客の少ない夜しか引っ越せなかったのである。(トラックなどに使える金はない。)

 この下宿で浪人時代の終わりから大学時代、就職するまで6年ほど住むことになる。となりの4畳半とそのとなりの3畳の間に長野県青木村出身の姉妹が2人で住んでいた。もう一部屋奥にあったが、そこは大家さんの子供たち(兄妹)の部屋だった。大家さん(ご主人)は10年ほど前に亡くなったが、奥様と息子さんとは今でも年賀状のやりとりをしている。息子さんが小学生後年になったころ、家庭教師をやらされたこともある。この大家さん夫婦には大変な恩義を受け、かつ大迷惑をかけることになる。
(つづく)

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               (槍ヶ岳山荘から槍の穂を望む/2000年ごろ)


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