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〈5〉失望、失敗の大学生活 [ちょっと寄り道〈1971~〉]

 71年末に池袋に引っ越して、こんどは山手線で2駅で高田の馬場だから予備校まで今度も近い。昔から池袋西口から北口にかけては独特の垢抜けない雰囲気で、朝、西口歓楽街の宴の後みたいな一角を通ると何ともわびしい感じになる。今はもう再開発されてすっかり様変わりしているが、西口から狭い三業通りに入って奥のほうに行くと黒板塀が続く昔の色町がある。この三業通りは左右に居酒屋、肉屋、パン屋等々、様々な店が並んでいて、スーパーなどなくても何でも買い物ができた。なかにうまい江戸前寿司を握ってくれる立ち食いの寿司屋さんがあった。お金があるときなどは、鉄火巻きを握ってもらって帰って食べた。

 さて、年が明けて72年冬、受験シーズンが始まり、早稲田大学の法学部と政治経済学部を受けることにした。その前にあった同志社大学の入試(蒲田の専門学校であった)に合格していたので、これで田舎に帰って土方に逆戻りということは避けられた。結果は両方とも合格。どちらにしようかと思ったが、認知度の高い政経学部政治学科に決めた。(連合赤軍事件、あさま山荘事件が起きたのがちょうどこの時期である。)晴れて都の西北の住人になったわけで、それは嬉しかった。1年ぶりで田舎にも帰った。帰ったが、1年間ほとんど孤独で過ごしたので、言葉がなかなか出てこずしばらくは失語症に罹ったようだった。

 再び上京して入学式に出た。ここから私の大学生としての長い失敗生活が始まる。マンモス大学とはわかっていたが、新入生1万人である。全学で4万人! 教室は語学以外は大教室。先生達はおもしろくもなさそうに十年一日のように一方的な講義をする。今思えば、相当実績のある有名な先生方もいたが、ありがたみが全くない。授業に出ないようになるのは時間の問題だった。政治学科などと言う得体の知れない学科を選んだのも失敗だった。政治家や新聞記者をめざすようならいいかもしれないが、経済や法学、商学のような目に見える具体的なジャンルを選ぶべきだった。というのは後になって考えたこと。そもそもきちんとした目的意識がないのが最大の問題である。

 さらに当時は学生運動の末期。早大は民青、革マル、社青同解放派(アオカイ)、といったセクトが入り乱れて勢力争いを繰り広げ、長い角棒を振り回し、火炎瓶を投げ、校舎の4、5階から長椅子を投げつけるようなゲバルトを繰り返す殺伐とした状況だった。そしてとうとう鉄パイプを頭に振り下ろすようになり、殺人事件まで起こった(川口大三郎君事件、72年11月)。学費値上げ反対とかいろいろな理屈を言うが、要は勢力争いである。もうまったく失望しないほうがおかしいような当時の大学であった。このころの内ゲバ(殺し合いである)の様子は立花隆の当時の著作などに詳しい。

 授業もおもしろくないが、期末の試験などもほとんど実施されたことがない。大学は荒れ放題でそれどころではないのだ。レポート提出だけはなんとかこなして、卒業まで4年間を過ごした。こういう話を今の若い人が聞けばあきれてものが言えないだろう。その通りである。ただし、そんな中でもきちんと目的意識を持って勉強していた人ももちろんたくさんいた。そういう人たちがいまいろんな分野でリーダーとなって活躍している。だから自分の不勉強を時代や状況のせいにするのは卑怯なのである。

 クラスの友人に誘われて、「外政学会」という国際政治を勉強する硬いサークルに入った。当時は、このような時代だったから、マルクス、マックス・ヴェーバーなどを背伸びして読んで、読書会などをやっていた。マルクス「経済学・哲学草稿」「ユダヤ人問題によせて」などはかなり納得して読んだ。ヴェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」「職業としての政治」などもなんとか読んだ。あと、大塚久雄とか平田清明とかも先輩に教わりながら勉強した。今、こういう本を読む人はほとんどいないだろう。冷戦が終わり、グローバリズム、強欲資本主義と高度情報社会に覆われた世界は、当時とはまったく次元の違う世界である。ただ、こういう時代だからこそ、哲学としてのマルクス主義や実存主義は発想の幅を広げるには有益だと思うのだが。(まだつづく)

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              (至仏山から望む尾瀬ケ原と燧ヶ岳/1985年ごろ)


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